人気ブログランキング | 話題のタグを見る

公開講座「元禄地震と津波」

房州舫2011企画 vol.4

今回の、みんなで学ぼう・考えようは、
歴史から学ぶ公開講座、「元禄地震と津波」です。

未曾有の規模の地震と津波、そして福島原発の事故という人災まで蒙った日本ですが、
この東日本大震災の後、南房総の行政や人々の意識は、どのように変化したのでしょうか。
今でも、南房総は自然災害が少なく安全なところだから、
という自信に満ちた発言は、行政を含め、人々の間でも至る所で聞かれます。
本当にそうでしょうか。
南房総市でも、様々な自治組織で防災訓練が始まっていますが、
津波避難の訓練は実際に役立つものとして、改善されたのでしょうか。

行政は、わたしたち市民は、東北の人々から何を学んだのでしょうか。

東海、東南海、南海地震、そしてまたそれらが連動して引き起こされる巨大地震。
また、それらにも増して、地震発生の可能性が高い、房総沖地震。

改めて、房州の地震を歴史で検証し、
今後の地震津波対策を、みなさんとともに考えたいと思います。


【日 時】10月1日(土) 午後2時〜4時
【場 所】南房総市千倉公民館
【講 師】青木嘉男氏
【後 援】南房総市教育委員会
【問合先】房州舫事務局   TEL/FAX. 0470-44-1780

# by boshu-moyai | 2011-09-27 07:02 | 学習会

「イフンケ」   宇梶静江さんから

アルラッサー オホホホ
母はいつも ここにいて
子守唄を歌っているよ
元気で暮らしているかい
どこへ行っても何をしていても
身体を大切にしておくれ
もしも道に迷ったら
苦しいことにであっても
あなたに渡した
絆という名のあの縄を
けっして離さないでおくれ

アルラッサー オホホホ
地上を歩くものたちも
地下に生きるものたちも
空を舞うものたちも
共につなぐ生命の縄を
思い出しておくれ
いとしい子らよ

アルラッサー オホホホ
共につなげる生命の縄を
もしもどこかで
傷つくことがあっても
痛みは共に伝わるよ
いとしい子らよ

アルラッサー オホホホ
忘れるなよ
あなたが悲しみに遭ったとき
絆という名のその縄を
きっと心でにぎりしめ
共に絆をとりあって
けっしてけっして忘れるなよ
すべてのものに
地球という名の母さんが
あなたに手渡した
絆という名の生命の縄を

アルラッサー オホホホ
忘れるなよ
離すなよ
いつも母さんはここにいて
唄っているよ
子守唄を
唄っているよ



*「イフンケ」というのはアイヌ語で
 「母」または「地球」という意味。

# by boshu-moyai | 2011-09-19 20:12 | いのちのメッセージ

「被災地から学ぶこと」亀田総合病院 小野沢医師からの報告 2

「被災地から学ぶこと」亀田総合病院 小野沢医師からの報告 2_a0232486_9443116.jpg


小野沢先生からの講演は、歴史から見た安房の地震の話となった。
伊藤一男氏の「房総沖巨大地震ー元禄地震と大津波」の本をもとに、
鴨川、前原地区では900戸の家が流され、1300人が死亡したこと、
また、高台に登り助かった人々がいたが、その高台は、かつて津波避難のために、
人工的に作られてものではないか、ということ、
また、話は被害のひどかった和田の真浦のことまで及んだ。

それから、市民がすべきこととして、
1.各個人で避難場所と避難経路の確認をすること
2.家族の集合場所を決めておくこと
3.区長・民生委員を中心に周辺の要支援者の把握と避難経路の確認をしておくこと
4.歩行が困難な人がいる場合は、介護保険を利用して車椅子を借りること
5.一度避難した後、避難していない人を助けに戻らないこと
6.薬を常用している人は、2週間くらいは余分に持っていること(特に糖尿病の人)


また、行政がすべきこととして、
重要なのは、意思決定の速さと柔軟な対応である、と指摘した。

そして

1.災害救助法に精通すること
2.権限委譲も含め、災害発生時の意思決定の仕組みを検討する必要があること
3.ボランティアの有効活用する仕組みを作ること
4.物流を円滑にする仕組みを作ること
5.避難所運営のマニュアルを作成する必要があること
6.要介護者は7日以内に医療施設、または域外に移動させること

などを挙げた。

市民がすべきことの1と2は、すでに個人で家族で行われているであろう。
3と4は要支援者の避難の問題である。
自主防災組織や民生委員の協力で避難の方法を考えなければならない。
要支援者や高齢者が家族や周囲に迷惑をかけたくない、という気持ちから、
逃げない、という選択をすることがある。
しかしながら、見捨てていくことの方が難しいのであり、車椅子を借りる、という方策で、
逃げる、という選択肢を持てるのであれば、家族共々、逃げた方がよいのである。
5は、厳しい判断であるが、一度避難した人が一人の逃げ遅れた人を助けに行って、
結局六人が亡くなった、という例を話された。
6は、被災した場合、1週間くらい薬の供給が出来ない事態がおこることを報告された。
特に糖尿病の場合は投薬治療を再開することに、医者が躊躇う場合が多い。
従って、自分で2週間分くらい余分の薬を持っていることを勧められた。

行政の問題は大きかった。
報告1で事例を出したように、避難後、避難所における痛切な問題だった。
何より迅速な判断とと柔軟な対応が必要とされるが、
特に、市長自らが職員へ柔軟な対応をするよう指示したかどうかは、
今回東北の自治体で大きな違いをもたらした。
平時から一般的にいわれる縦割り行政の問題が、災害時にどれだけ弊害となって現われるか、
これは行政として考えを改めて頂きたいと思う。
また、先生が事例に出した市は、合併の繰り返しで行政区が大きくなり、
その下には旧市町村という構成がある。これは南房総市とまったく同じケースである。
縦割り行政の中に、旧市町村の横割りの行政が入り込む図式となる。
このように合併で大きくなった市が、どのようにかつての旧市町村に的確に指示が出せるのか、
また的確に要望に応えられるのか、東北で起きた問題を南房総市では真摯に受け止めて頂きたい。
1の、災害救助法に関しては、即刻市職員全員で取り組んだ頂きたい。
6は、医療現場からみた結果である。
避難した要介護者の4割が3月20日前後に亡くなった、という報告がある。現在多くの在宅医療は電気に依存している。吸引機やエアーマット等、電気が使えなくなった今回、要介護者の多くが肺炎や敗血症を発症して亡くなった。これらを防ぐには、7日以内に、ハザードマップで安全な場所を確認しながら、確実に医療施設、または要介護者用の施設に移動させることを提案された。


以上、今回の小野沢医師からの報告をまとめてみた。

# by boshu-moyai | 2011-09-17 08:51 | 学習会

「被災地から学ぶこと」亀田総合病院 小野沢医師からの報告 1

「被災地から学ぶこと」亀田総合病院 小野沢医師からの報告 1_a0232486_940050.jpg


小野沢滋先生は、終始静かにそして、熱く語った。
それは、被災地を何度も訪れ、怒りと悲しみの現場を見続けたからだと思う。
救われたいのちをつないでゆくには、いくつもの壁をこえなくてはならない。
行政も市民も、
緊急時の対応とは何か、
それを平時から考えておくことの重要性が、明らかになった。

小野沢先生はAWA311の活動の一環として、
被災者を南房総へ遠隔避難させる現地コーディネイトのために被災地に入った。
3月29日から4月5日がその1回目となった。
雄勝から女川の被害はひどかった。石巻市内は北上川の氾濫の被害も大きかったが、
その一方、蛇田地区のJASCOは無傷だった。被災地は海辺だけだった。
石巻市、気仙沼市、南三陸町、被災の仕方はそれぞれだったが、
それにも増して違いが出ているのは、避難所の様子だった。

災害時に適応される「災害救助法」という法律がある。
通常、この執行主体は県であるが、この大震災では、市町村にその権限を落とした。
市によっては、市役所自体が存在せず、多くの自治体はその機能を失っていたのにも関わらず、
である。従って自治体の対応はバラバラとなった。
「災害救助法」では、¥1150/日の食事が国の10割負担で支給されることになっている。
(これは後、¥1500/日に引き上げられた)
また、3食付きで¥5500/日/人で旅館やペンション等に避難ができる。勿論、移動の費用も出る。
その後民間のアパートを仮設住宅として借りることになれば、¥60000/月が支給される。

この「災害救助法」を行政が知っていたかどうか、が各自治体の対応の差に現れた。
この市では、1日に、菓子パン2個とおにぎり2個が3ヶ月続いた。
水で固い菓子パンを流し込んでいた。
避難施設の担当は部屋によって産業通信課や教育委員会、
そして食事の担当は健康推進課があたる。
ここでは、行政がこの法律の存在さえ知らなかった。
市の職員は、前例がない、と東松島に視察に行った。
4月9日に食事改善の提言をし、視察が翌週、そして避難所でお弁当が出たのは、6月だった。
その後、昼には弁当、それ以外には菓子パン2個、おにぎり2個となった。
6月末、そこに果物1個と真空パックの煮物、漬け物が付いた。
努力をすれば、3食弁当も可能だろう。

しかし忘れてはいけない。近くのJASCOには食品は溢れているのだ。

一方、この「災害救助法」をよく知っていた自治体では、
被災後間もなく、近くの温泉に500人規模の避難の準備に入ったところもあった。

崩れた家の「立ち入り禁止」の張り紙は、被災後2週間以内に調査し貼らなければならない。
今回は被災の状況がひどく、間に合わなかった。
被災から2ヶ月経ってしまったとき、
もはや「立ち入り禁止」の張り紙を貼ることさえできなくなり、
住民はどんなに崩れかけた家でも、住んでしまっていた。

指定されている避難所に集まる、などというのは絵に描いた餅だった。
人々は安全そうで、食料が調達できれば、そこにいついた。
「ヨークベニマル(スーパー)・エレベーターホール」という「避難所」ができた。
人々は階下で売っていたレトルト食品の汚れを落とし、食べた。7月末までそこにいた。
「鈴木宅」という「避難所」もできた。そこには仮設トイレも設置された。
津波被害にあった場合、人々は移動ができなくなる。
一時避難ビル、というのがそのまま「避難所」となることもあるのだ。

WHOでは、避難所での一人当たりの広さを1坪弱と定めている。
もちろん、すべてそのようにはいかない。

避難所のリーダーとは誰で、何をするのか。
多くの場合、名目上は区長であるが、実質はそこに長時間いて口を出す人、となる。
決して、能力、ではない。
だから、このリーダーによって、避難所の様子もすいぶんと変わる。
4月21日、教育委員会は突如学校の再開を通達した。
体育館には600人の避難者がいた。若い大学生のリーダーは、家のある人を帰宅させた。
その人達は、壊れかけた家に住むこととなった。
残りを体育館に残した。区割りは一人一帖となった。
テレビ嫌いの教頭先生がリーダーの避難所もあった。
テレビが欲しい、と言えば、NHKはすぐにでもテレビを支給する。
防災無線も壊れたままで、余震が続く中、そこではラジオだけがたよりの避難生活となった。
小学校のリーダーは市議会員だった。ストーブがあり、湯を沸かし、生野菜もあった。
ここではPTAや学校関係者や行政、避難者との会議が連日行われ、
ここを明け渡さないことにした。
ついに開校はとりやめとなったが、義務教育が再開される、という通達から、
遠くに避難していた人々も、子どもを連れて帰って来てしまっていた。
公団住宅に、何世帯も同居することとなった。

国はすぐに仮設住宅を用意した。
しかし、設置場所を決めるのは市町村だった。土地がなかなか決まらなかった。
市長の力は強力だった。国がどうこうできる話ではなかった。

ここでは送られた避難物資を市の窓口一つで受け付けた。
避難物資は続々届いた。
5月中旬までグランド2個分の物資が雨ざらしとなった。
車椅子も何台もあったはずだった。けれど、どこにあるのかわからなかった。
ついに佐川急便に分類を頼んだ。二日で終わった。
タグが付けられ、コンピューターに入力された。その後は自衛隊が担当した。

 

# by boshu-moyai | 2011-09-15 01:49 | 学習会

房日新聞に掲載されました

先日行われた、房州舫主宰の「被災地から学ぶこと」
亀田総合病院の小野沢滋先生からの報告講演会記事が房日新聞に記載されました。

http://www.bonichi.com/News/item.htm?iid=5805


私の方からは時間をみてご報告致しますが、
当日来れなかった方は、こちらを参考にして下さい。
多くの問題点や課題を含めての情報、そして知識の共有化が、
行政としても市民としても、地域ぐるみで防災意識を高める第一歩だと思っています。

# by boshu-moyai | 2011-09-13 09:29 | 学習会