カテゴリ:被災地と房州をつなぐ( 5 )

牡鹿半島〜女川

2011.9.4

AWA311の二日目の仕事は、
今回の被災で南房総に移転入院した方やその家族を見舞うことから始まった。
石巻の市街地から少し行ったところの住宅街だった。
谷地と呼ばれるその場所は、
ここが津波でやられたら、石巻は全滅だよ、といわれた場所だった。
再開されたお店を見ると、そこここに被害の後が見受けられた。
一見すると復興されたかにみえるいろいろな場所も、
この半年で、みんなが力を合わせてここまでにしたのだと実感した。
次の方の場所も、家の壁にあちこちに亀裂が入り、
屋根瓦は多く壊れてしまっていた。
どちらも家族の顔が穏やかで、
南房総に移転できたのを喜んでいたのが印象的だった。
ひとりの人間の最期を明るくすること、
これも医療の現場の仕事だと思った。

それから昨日少し回った牡鹿半島に入った。
女川の市街地から遠くはずれたところに、いくつかの仮設住宅が建てられていた。
今、支援として、どこで何が求められているのか、
現地に入っているボランティアも悩むところではないだろうか。
石巻も女川ももう公的には積極的にボランティアを受け入れている様にはみえない。
それでも現場は、これでいいのだろうか、という感慨もあった。
市街地から遠い仮設住宅では、
まだまだ、こんな支援物資も役に立っている様に感じた。

お昼近くになり、ひとまず女川綜合体育館で炊き出しをしている部隊と合流した。
この大きな体育館で、まだ120人の人が避難していた。
被災から半年経っているのに、まだ、体育館での避難が続いているのだ。
炊き出しは、焼きそばと豚汁だった。
近隣の仮設住宅の人々の分も含めて300食を用意した。

AWA311の男性部隊は、朝早く雄勝町へ向かっていた。
ここはなかなか物資の届かないところだと聞いていたからだった。


今、このブログを書き込む時点で、
わたしは石巻で医療支援をしている亀田総合病院の小野沢先生の講演を聞いている。
そのことに関しては後で述べようと思うが、これらの状況の違いは、
それぞれの自治体の行政の対応の違いからきていることもわかってきた。

わたし個人は当時日本にいなかったので、阪神淡路大震災を経験していない。
今回の東日本大震災は、被害が甚大過ぎて、
阪神淡路大震災の教訓が生かされない、とも聞く。
しかし、わたしたちは既に東日本大震災を経験してしまったのだ。
失われたいのちから、救われたいのちから、
わたしたちはまだまだ多くのことを学ばなければならないと思う。
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by boshu-moyai | 2011-09-11 22:52 | 被災地と房州をつなぐ

石巻〜牡鹿半島〜女川

2011.9.2〜3

夜、AWA311とともに石巻に向かった。
どう考えても入らないだろう、という量の野菜やら衣類を車に詰め込んだ。
夜、8時過ぎに出発、院長は直前まで仕事で、
こんなハードスケジュールでやれるのは、医者と看護婦だけだろう。
さすが、途中で1時間ばかり、車中で仮眠をとった。
石巻に着いたのは、朝6時頃だった。

少し休んでから、わたしは炊き出し部隊と合流した。
石巻は前回来たから、市街地の様子は少しわかった。
渡波地区の黄金浜会館へ行った。
もう、ここで避難生活をしている人はいないのだけれど、
「炊き出し」を依頼されて、250食のカレーとサラダづくりのお手伝いとなった。
周囲の仮設住宅から、たくさんの人々が来た。
持ってきた衣類もずいぶん持って帰った。
ここでは一見するとみんな明るい顔をしていた。
明日の炊き出しの準備で、豚汁にカボチャを入れるかどうか、
議論する程、みんな元気だった。
それでも、まだ下着がない、というおばあちゃんの話を聞くのはつらかった。

次の日の避難所を回るため、牡鹿半島から女川へ向かった。
牡鹿半島の海岸地区は、同じ石巻市といえども、
市街地とはまったく様相が違っていた。
海岸や港は地盤沈下し、辺り一面、海の続きのようだった。
がれきもそこかしこに積み上げられているだけだった。
匂いもあった。
驚くような場所にこじんまりと仮設住宅が集まっていた。
周囲には食料さえも買えるような場所は、すっと見当たらない。
どうやって暮らしているのだろう、と思った。
聞けば、時々、車で物資が運ばれたり、食料を買うこともできるようだった。
それでも、この荒涼たる風景の中で生きるのは、
困難だと思った。

女川は原発の町だった。
この原発が壊れなかったのは、奇跡のようだった。
原発は高台にあった。これが功を奏した。
明日はこの女川で炊き出しをしたり、物資を配ったりすることになっていた。

地域地域で、復興の格差が生じていた。
牡鹿半島の海岸地区で、まるで置き去りにされたように、
仮設住宅で生活をしている人々のことを考えた。
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by boshu-moyai | 2011-09-11 22:49 | 被災地と房州をつなぐ

虹の架け橋プロジェクト

福島の子どもたちが、
南房総に来て、思いっきり、遊んだ。

流しソーメンを食べるために、自分で竹の器を作った。
のこぎりを使うのも、大変だ。ちょっと手が痛くなったね。
竹のお箸も、自分で作った。
小刀を危なくないように、用心しながら使い、竹を削った。

輪切りの竹のあまりで、竹ぽっくりを作って遊んだ。
あまりの竹で、竹とんぼも作った。


お腹がぺこぺこになったら、ようやく流しソーメンが始まった。
上手にソーメンを取った子、取れない子、いろいろいろいろ。
トマトも流れてきた。手づかみで取った。


思いっきり、外で水遊びもした。


かき氷も食べた。
自分で氷を力一杯ぐるぐるまわした。
ブルーハワイ、ストロベリー、以外にみんな、抹茶が好き。


コットンクラブのお手製のハンモックも活躍した。
ブランコみたいにしたり、居眠りしたり。
よかったな。持ってきて。

福島の子どもたち。
27人の福島の家族。
今日は楽しかったね。ありがとう。


夜はキャンプ。BBQだよ。

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by boshu-moyai | 2011-08-07 11:46 | 被災地と房州をつなぐ

石巻市慰霊祭 灯籠流しと竹灯篭

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竹灯篭は 一夜限りの灯り
灯籠流しは 戻ってくることのない 一回きりの船出

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竹灯篭を作るのに、11月には山に入り、竹を切る。
灯篭にするには、その年の竹を使う。
竹自身の油が、蠟燭の火の照り返しとなり、灯りは美しく輝くそうだ。
一度使った竹には、煤が付き、灯りはやはり映えなくなる。

一夜限りが最高の竹灯篭
わんだらのしのちゃんから聞いた話

一夜限りの竹灯篭を石巻に届けたみなさんは、とても謙虚に黙々と働いた。
わたしはこの日のために、皆さんが何日もかけた準備を、
ひとつも手伝うことが出来ず、この当日だけの参加となった。
それでも、こんな機会を頂いたことに、深く感謝した。


石巻は、大きな地方都市だった。
地盤が沈下し、駅前の北上川の川辺は、満潮時には地面から水が湧き出て、
辺り一帯を大きな水たまりとした。
北上川の川幅は、何メートルか広くなった。
設置準備が終わり、点火まで少し時間があった。
川縁を自転車を押していたおじいちゃんと話しをした。
車で逃げた若い人と、老人はだめだった。
みんな流された。と淡々と話した。
5月もここを訪れた人から聞くと、マチナカはずいぶん片付けられたようだった。
確かにマスクも必要ではなく、一見すると、暮らしは元に戻りつつあるようにみえた。
でもそれは、
わたしたちがこの場所に午後1時に着き、ひたすら慰霊祭の準備をしていて、
外を見る機会がなかったから、
だった。
慰霊祭が終わり、ホテルに着いたのは10時を回っていた。

朝早く、地震があった。
翌朝、バスは石巻の湾岸から市内を抜けた。
石巻は想像以上に、大きな地方都市だった。
湾岸には、多くの工場が建ち並んでいた。
水産加工の工場はもちろんのこと、
製紙工場、段ボール工場、プラスチック工場、化学工場、なにやらわからない、
たくさんのかなり大規模な工場があったのが、想像できた。
壊滅だった。
ここでたくさんの人が働いていたんだ、と思った。
みんな仕事をなくした。
命をなくした人もいるのだろう。
工場からでた、たくさんの原材料が山となっていた。
紙、材木、発泡スチロール
廃棄となった車の山もあった。
市内で、片付けられた、と言われた、流された車は、ここにあった。
地盤沈下で、水がひかない田んぼがあった。
居住地では、吸い上げポンプを設置している所もあった。
家々がそこに建っていたであろう痕跡、土台だけが残る。
家が残っている。けれどそれは半壊、または全壊に近く、そこにあった。
一面の一面の、被災のあとだった。

言葉を失いながら、見ていた。
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by boshu-moyai | 2011-08-03 11:39 | 被災地と房州をつなぐ

石巻市慰霊祭 石巻に小さな灯りを届ける

7月31日 午前3時54分 地震発生
カーラジオをつける
震源地、福島M6.4 

前日30日、房州舫2011の第二回の集会を終え、
なんやかんやと忙しく、1時間も眠っていなかった。
集会の反響は、とても良かった。
100部用意した資料は、手元に16部しか残らなかった。

翌31日は、石巻市の慰霊祭に参加するため、
朝、3時45分に家を出た。
待ち合わせの場所で車を停めると、ラジオからは地震速報が流れた。

被災地に入るのは初めてだった。
保田川頼朝桜の里づくり実行委員会と、館山・南房総市の有志達が
「石巻市北上川の川開き・東日本大震災慰霊祭」に
石巻に小さな灯を届けよう、と参加した。
わたしは、当日設置のボランティアとして加わった。

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神戸からきた竹灯篭に、灯が灯る。
南房総の竹灯篭にも、灯が灯った。
石巻の子どもたちが描いたという紙の灯篭にも、灯が灯った。

宗派を超え僧侶達が集まった。市民のご詠歌で慰霊祭は始まった。

僧侶達の読経が続いた。

東北最大の北上川を、あの日、大津波が襲った。

http://www.youtube.com/watch?v=k6Pv4JrSFJE&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=P9cE-6Ldjc4&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=DW0dqWR4S7M&feature=related

石巻市では、3000を超えた人々が、命を失い、
現在でも、1000人近くの人々が、いまだ、行方不明となっている。

http://mainichi.jp/select/wadai/news/20110801ddm001040065000c.html
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20110801ddm001040065000c.html

その一人一人の名前が書かれた灯篭が、北上川を埋め尽くした。
一万の灯篭が、あの日と同じ北上川を、小さな灯を灯しながら、流れて行った。

となりで、女の子を連れた若いお母さんが、
「おじいちゃんとおばあちゃんの灯篭が流れて行くんだよ。」
と、涙を流しながら、子どもに話し、祈り続けていた。

もう一度最後にご詠歌が詠われ、慰霊祭は終了となった。


一万個の灯籠は、慰霊祭が終了しても、流れ続けた。
2時間を過ぎても、灯篭は、北上川を、流れ続けた。


ひとりひとりの魂が 海へと帰って行った
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by boshu-moyai | 2011-08-03 11:33 | 被災地と房州をつなぐ