「被災地から学ぶこと」亀田総合病院 小野沢医師からの報告 1

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小野沢滋先生は、終始静かにそして、熱く語った。
それは、被災地を何度も訪れ、怒りと悲しみの現場を見続けたからだと思う。
救われたいのちをつないでゆくには、いくつもの壁をこえなくてはならない。
行政も市民も、
緊急時の対応とは何か、
それを平時から考えておくことの重要性が、明らかになった。

小野沢先生はAWA311の活動の一環として、
被災者を南房総へ遠隔避難させる現地コーディネイトのために被災地に入った。
3月29日から4月5日がその1回目となった。
雄勝から女川の被害はひどかった。石巻市内は北上川の氾濫の被害も大きかったが、
その一方、蛇田地区のJASCOは無傷だった。被災地は海辺だけだった。
石巻市、気仙沼市、南三陸町、被災の仕方はそれぞれだったが、
それにも増して違いが出ているのは、避難所の様子だった。

災害時に適応される「災害救助法」という法律がある。
通常、この執行主体は県であるが、この大震災では、市町村にその権限を落とした。
市によっては、市役所自体が存在せず、多くの自治体はその機能を失っていたのにも関わらず、
である。従って自治体の対応はバラバラとなった。
「災害救助法」では、¥1150/日の食事が国の10割負担で支給されることになっている。
(これは後、¥1500/日に引き上げられた)
また、3食付きで¥5500/日/人で旅館やペンション等に避難ができる。勿論、移動の費用も出る。
その後民間のアパートを仮設住宅として借りることになれば、¥60000/月が支給される。

この「災害救助法」を行政が知っていたかどうか、が各自治体の対応の差に現れた。
この市では、1日に、菓子パン2個とおにぎり2個が3ヶ月続いた。
水で固い菓子パンを流し込んでいた。
避難施設の担当は部屋によって産業通信課や教育委員会、
そして食事の担当は健康推進課があたる。
ここでは、行政がこの法律の存在さえ知らなかった。
市の職員は、前例がない、と東松島に視察に行った。
4月9日に食事改善の提言をし、視察が翌週、そして避難所でお弁当が出たのは、6月だった。
その後、昼には弁当、それ以外には菓子パン2個、おにぎり2個となった。
6月末、そこに果物1個と真空パックの煮物、漬け物が付いた。
努力をすれば、3食弁当も可能だろう。

しかし忘れてはいけない。近くのJASCOには食品は溢れているのだ。

一方、この「災害救助法」をよく知っていた自治体では、
被災後間もなく、近くの温泉に500人規模の避難の準備に入ったところもあった。

崩れた家の「立ち入り禁止」の張り紙は、被災後2週間以内に調査し貼らなければならない。
今回は被災の状況がひどく、間に合わなかった。
被災から2ヶ月経ってしまったとき、
もはや「立ち入り禁止」の張り紙を貼ることさえできなくなり、
住民はどんなに崩れかけた家でも、住んでしまっていた。

指定されている避難所に集まる、などというのは絵に描いた餅だった。
人々は安全そうで、食料が調達できれば、そこにいついた。
「ヨークベニマル(スーパー)・エレベーターホール」という「避難所」ができた。
人々は階下で売っていたレトルト食品の汚れを落とし、食べた。7月末までそこにいた。
「鈴木宅」という「避難所」もできた。そこには仮設トイレも設置された。
津波被害にあった場合、人々は移動ができなくなる。
一時避難ビル、というのがそのまま「避難所」となることもあるのだ。

WHOでは、避難所での一人当たりの広さを1坪弱と定めている。
もちろん、すべてそのようにはいかない。

避難所のリーダーとは誰で、何をするのか。
多くの場合、名目上は区長であるが、実質はそこに長時間いて口を出す人、となる。
決して、能力、ではない。
だから、このリーダーによって、避難所の様子もすいぶんと変わる。
4月21日、教育委員会は突如学校の再開を通達した。
体育館には600人の避難者がいた。若い大学生のリーダーは、家のある人を帰宅させた。
その人達は、壊れかけた家に住むこととなった。
残りを体育館に残した。区割りは一人一帖となった。
テレビ嫌いの教頭先生がリーダーの避難所もあった。
テレビが欲しい、と言えば、NHKはすぐにでもテレビを支給する。
防災無線も壊れたままで、余震が続く中、そこではラジオだけがたよりの避難生活となった。
小学校のリーダーは市議会員だった。ストーブがあり、湯を沸かし、生野菜もあった。
ここではPTAや学校関係者や行政、避難者との会議が連日行われ、
ここを明け渡さないことにした。
ついに開校はとりやめとなったが、義務教育が再開される、という通達から、
遠くに避難していた人々も、子どもを連れて帰って来てしまっていた。
公団住宅に、何世帯も同居することとなった。

国はすぐに仮設住宅を用意した。
しかし、設置場所を決めるのは市町村だった。土地がなかなか決まらなかった。
市長の力は強力だった。国がどうこうできる話ではなかった。

ここでは送られた避難物資を市の窓口一つで受け付けた。
避難物資は続々届いた。
5月中旬までグランド2個分の物資が雨ざらしとなった。
車椅子も何台もあったはずだった。けれど、どこにあるのかわからなかった。
ついに佐川急便に分類を頼んだ。二日で終わった。
タグが付けられ、コンピューターに入力された。その後は自衛隊が担当した。

 
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by boshu-moyai | 2011-09-15 01:49 | 学習会